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メンバー特集

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Keep Natural Ever Green

早すぎた調剤薬局の開設
私は36年前、現在のアピスMCグループの前身である「協立薬品株式会社」を開業しました。いまでこそ、処方箋とお薬手帳を持って薬局に行くことが当たり前になっていますが、当時は病院外で薬が処方されることはほとんどありませんでした。 ですが、院内処方には二つの問題がありました。一つは「重複投薬」といって、内科と整形外科など複数の病院にかかった場合、それぞれの窓口で同じ薬が二重に投与されること。 もう一つは「相互作用」といって、別の医院で出された薬との飲み合わせを考えずに処方されるため、薬同士がぶつかりあい、効果が出すぎたり、反対に出なくなったりすることです。 この二つによって、本来の薬の効果を発揮できず病気が治りにくくなることや、副作用が出てしまうことがあります。 一人の患者さんに処方されているすべての薬を把握したうえで、薬剤師が調剤することができれば、このような事態には陥りません。 そのため、医療と調剤とが独立した「医薬分業」は、薬剤師にとって長年の夢でした。 この夢を実現すべく、私はそれまで薬剤師として勤めていた病院を辞め、茨木市内に調剤薬局第一号店を開設しました。 しかし、まだ薬剤師の認知度は低く、病院で働いていても患者さんに「看護婦さん」と呼ばれた時代ですから、開業してから20年近くもの間、苦難の日々が続きました。 その頃、国が国立病院を中心に院外処方箋を出すよう促進していたにもかかわらず、実際はほとんど出されていませんでした。 薬局内で待っていてもまったく処方箋は来ないため、近所の病院へ毎日のように私自身が営業に行きました。 その甲斐もあり、少しずつ処方箋をいただけるようになりましたが、まだまだ数は少ないままでした。 従業員はどんどん辞めていき、つらい日々が続きました。それでも、患者さんに安心して飲んでいただける薬を提供したい、という想いは捨てきれませんでした。 ところがところが90年代半ば頃、 ようやく追い風が吹いてきたのです。 法律が改正され、38の国立病院で完全な医薬分業が達成されました。 法律改正の翌年、1999年には私たちも4店舗を新たに開設し、一気に店舗数が倍になりました。 国立病院からはじまった医薬分業の波は徐々に全国の一般病院にも広がり、 それにつれて私たちも店舗数を増やし、創立36年目の現在では、 大阪を中心として全国に70店舗の調剤薬局を抱えています。 また、 調剤と並行して1988年から介護事業をはじめました。介護保険が始まったのが2000年ですから、まだ高齢化社会が広く問題視されるようになるずっと前でした。 介護という言葉が浸透していないうちから介護用品の販売をはじめ、1998年には訪問介護事業と介護ヘルパー養成事業をはじめました。 調剤も介護も、未だみなさんが知るずっと前からはじめていたため、現在でも我が社を支える大きな柱として発展させることができたのです。 その分、苦労もたくさんしましたが、これまでやってきてよかったと強く思いました。
会社存続のため創業者がなすべきこと
 2010年、我が社は30周年という節目を迎えました。これまで調剤や介護事業、卸業などを行ってきましたが、きちんと部署ごとに事業が分けられていなかったため、事業部制として会社を分け、ホールディングス化しました。私はそれまでずっと自ら先頭を走り続けていましたが、これにともない第一線を退き、海洋に就任したのです。 その時、古希を迎えていたとはいえ、まだまだ現役で働くことはできたのですが、あえて退いたのには理由があります。これまで私は役員とともに鶴嘴を持って先頭にたち、会社の未来を切り拓いてきました。1人の社員としての働きは十分してきたという自負はありますが、経営者としてマネジメントや、次世代の育成を行えていたかというと、首を横に振るしかありませんでした。いくら私一人が頑張ったとしても、会社をこの先何十年も存続させることはできません。そこで思い切って若い世代に託してみようと考えたのです。 2代目社長は娘婿なのですが、はじめから我が社にはいっていたわけではなく、これまで他の会社で勤務し、さまざまな経験をしてきた人です。社長に就任するやいなや、事業をぐんぐん伸ばし、事業を託してから5年間で売上げがなんと2倍にまで膨れ上がりました。 2代目は経営手法が斬新で古い型の私はついて行けない感じが多々ありますし、現場のことは30年間見続けてきた私のほうがよくわかっていると思います。しかし、「社長らしさ」という点では私よりもずっと上回っています。創業者は一から土台を作り上げてきた人間ですから、どうしても自ら現場業務に手をだしてしまい、一従業員としての業務しかできていませんでした。それを考えると、「いまの社長は社長、私は社長でありながら労働者」であったと思い、早いうちから会社を託して正解だったと感じています。 業績が伸びているからとはいえ、すべてがうまくいっているわけでもありません。「最近の若い人は出世したがらない」と言われていますが、我が社も例外ではありません。以前、若手社員に経営幹部になりたいかと聞いたら、ほとんど手が上がりませんでした。私たちの世代は創業メンバーですから、会社への思いだけで突き進むことができました。しかし、2代目からはそうはいきません。会社を何代も存続させるためには、私たち創業メンバーの想いを若手にしっかりと伝え、受け継いでいくことがなによりも大切だと考えました。 そのための施策のひとつとして、経営理念と行動原則を書いたカードを従業員全員に渡し、いつでも唱えることができるようにしています。また、紙の上だけではなく、私たち自身が積極的に現場に行き、直接想いを伝えるようにもしています。いまふたたび同じ質問をしたならば、多くの手が挙がるようになっているのではないかと思うほど、若手社員の意欲を感じるようになりました。
傘寿で新人賞!?
創業者としてずっと先頭を駆け抜けてきましたので、「仕事が趣味」という期間が長かったのですが、その中でも茶道は40年ほど続けてきました。病院に勤務していた頃に、院内クラブにさそわれたことがきっかけでした。実は、はじめあまり乗り気ではなかったのですが、続けているうちにどんどんお茶が好きになり、裏千家のお免状を取るまでになりました。習うべきことはすべて習ってしまった、といえるくらいに極めてしまったのです。 ですが、茶道は立ったり座ったりという動きが多いため、膝の痛みに悩まされるようになりました。そのとき、自社ブランドとして出しているグルコサミンのサプリメントがあることを思い出したのです。近頃よく耳にするグルコサミンですが、我が社は10年ほど前から売っていました。純国産で高品質な成分であるうえ、真面目でとても信頼できる方が作ってくださっているものです。実際に飲んでみると、非常によく効いて、膝の痛みはすっかりなくなりました。改めて、私たちが患者さんに提供しているものの品質の高さを実感し、誇らしくなりました。 いくらグルコサミンが聞くとはいえ、年齢を重ねるごとにだんだんと体力的にきつくなってきましたので、別の趣味をということで、昨年から囲碁をはじめました。囲碁の世界はとても奥深く、何年続けてどれほど強くなったとしても、「まだ、上手くなりたい」と思い続けるものだそうです。実は先日、私の入っている囲碁クラブ「棋苑」というクラブで大会が行われたのですが、そのなかの新人戦で私が優勝したのです。80歳の新人賞ということで、とても話題になりました。この歳になっても夢中になって勉強していて、ついつい夜更かししてしまうんですよ。
絶えることのない情熱の秘密
 取材に際して、はじめて三好さんのご年齢を知り大変驚きました。あれほどの肌のツヤと情熱をお持ちにもかかわらず、なんと今年傘寿を迎えられたとか。魔法でも使っているのではとしか思えませんでした。若さの秘訣をお伺いしたところ、悪戯な笑顔で「グルコサミンです」と教えてくださいました。グループの会長に就任し、第一線から退いてからは、ロ-タリークラブの会長も勤められていたそうです。毎週の社長挨拶をするために、かなり勉強なさったとか。座右の銘は「目標達成迄諦めず粘り強く」だそうで、仕事においても趣味においても、ご自分が努力し続ける三好さんの生き様が、この言葉に集約されているなと感じました。(編集子)
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